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2020年11月19日木曜日

「鬼滅の刃」炭治郎と文治郎


「鬼滅の刃」竈門炭治郎(かまどたんじろう)は、川手文治郎(かわてぶんじろう)をモチーフにしたのではと思われる点がいくつかある。

そもそも日本における鬼の情報を集めれば、岡山、そして浅口市の情報が出てくるのは必然のこと。

浅口市は、数々の鬼伝説、陰陽師(天文学者でもある)安倍晴明から土御門神道の門人小野光右衛門にいたるまでの活躍、白川神道の免除をもつ教派神道金光教の開祖金光大神など、限りなく存在する岡山最大の聖地であるといえる。

中でも炭次郎と文治郎の類似点を語るとするならば、まずは、鬼門の祟り神「金神」による金神七殺

■金神七殺(鬼に殺される家族) 




江戸時代のスピリチュアルリーダー金光大神の元の名は、川手文治郎である。

彼の生まれた岡山県浅口市は、古くは安倍晴明などの陰陽師の修行の場として栄え、

鬼の伝説も数多く残っており、そのような風土の中で、彼は育った。

信仰心深く、誰よりも日柄方位を守り、鬼門の金神に無礼がないようにと務めたが、金神七殺※金神七殺とは、方位を犯すと金神がその家の者を七人殺すこと)に遭う。

家族がどんどん死んでいく中、最後に彼(七殺目)も危篤となって、ついに金神と出遭うこととなる。

炭治郎一家も5人が死に、6人目の禰豆子は鬼となり、炭治郎がその場にいれば7殺目に遭っていた。

そして炭次郎も禰豆子を通して鬼と出遭う。

この主人公の出来事は、金神七殺を連想させるというか金神七殺そのものである。

岡山には鬼神信仰である、金神信仰が根深くあったことも、歴史を見ればよくわかる。

次に、建物のつくりも見てみよう。

■立教聖城





文治郎が金神と出遭い、その後、白川神道の免除を持つ神職へと進む。

金乃神社建立の前、彼が金神とのやり取りが始まり、人々を救い助けたはじまりの場を、教派神道金光教では立教聖城と呼んでいる。

この立教聖城の建物は再現された建物であるが、家族中が死んでいく当時と同じ形をしていると言われている。

この建物と家族皆が鬼に殺される炭次郎の家がよく似ている。

そしてもうひとつ大切なことは、この鬼に対する2人の姿勢である。


■金神・鬼に対する姿勢(常識とは違う感覚の類似)






川手文治郎は、鬼である金神に対して、どういう姿勢であったのか。

世間では、触らぬ神に祟りなしと、逃げる、または封じるなどと、金神を祟り神として扱っていた。

文治郎は、その金神を他の神と分け隔てなく神として立て仰いだ。

その結果、祟りではなく、すさまじいパワーあふれる神の愛であったことがわかるようになってくる。

後年、神が世に出た恩人はその方であると、文治郎が神から礼を言われる場面もあった。

炭次郎も文治郎も愛が深い。

鬼なんて切ってしまえ、いなくなればいいという鬼殺隊の常識とはまったく別である。

鬼や金神に対してでさえ、愛が限りなく深い。

その愛に応えるが如く、炭次郎にあっては鬼が浄化していく、

文治郎にあっては、金神が、正しい神として立ち現れることとなった。

炭次郎は鬼殺隊に入り、心身共に成長していき、

文治郎は神職となり、金光大神と呼ばれるようになっていった。

川手文治郎は、竈門炭次郎であり、竈門炭次郎は、川手文治郎である。


余談だが、もうひとつある。

金光大神の弟子、近藤藤守である。

■藤守の紋




人々を救い助け、弟子を多く育てた近藤藤守は

難波土橋の金神様と人々に呼ばれていた。

その藤守の紋は、藤の中に「守」となっている。

金光大神が、唯一無二のこの道を守りぬいてくれとの思いから、藤守(不二を守る)の名を授けたことからはじまる。

鬼滅の刃の紋も同じく、藤の中に漢字「藤」がある。

ここもまた類似しているところとも言えないだろうか。


■最後に

スピリチュアル関係の方の中に、この立教聖城にパワーを感じると言われる方が多々おられるとよく聞く。

この聖地を知っている者だと、あたり前のことなのだが、もし行ったことがない方がまだおられるなら、岡山県浅口市金光町の金光教境内にある立教聖城へ行かれることをおススメしたい。

また、その立教聖城の横に階段があり、そこを上がれば、金光大神人力威乃命の奥津城(墓所)もある。

今の時代に必要な、文治郎や炭次郎の「愛」の深さに触れてみたらどうだろうか。

静けさの中に、底知れないパワーを感じるはずである。

人と比べて、奪い合うような、鬼があふれる醜い世界ではなく、清らかな神代の世界に誘ってくれることだろう。

生きていたらああもしてあげたい、こうもしてあげたかった失った家族への「愛」、そして祈りが、ビンビンと伝ってくるだろう。

家族への愛が、やがて人類への愛へと大きく成長していく、その愛で、あなた自身も包まれていることに気づくことになる。

炭次郎、その家族たちと会いたければ、立教聖城へ行けば、みなさんを出迎えてくれるだろう。

そう信じてやまない。

2012年10月9日火曜日

安倍晴明の生まれ変わり?!金神系神道諸派に影響を与えた金光大神とは?

金神を祀った元祖は誰か?


■鬼門大金神像(高御位神宮蔵)




                      

艮の金神といえば、大本の出口王仁三郎か、それとも日月神示の岡本天明か、そのどちらかを思い出すのかもしれないが、そもそも祟り障りの神と恐れられていた金神を正神として祀り出した元祖は金光大神である。

※天地金乃神・・・日乃大御神(太陽の神様)、月乃大神(月の神様)、丑寅・未申の金神(大地の神様)の三神を総称した御名


■金光大神




しかし、金光大神は、爆発的な金神のおかげと同時に、生活に即した素朴な信仰を勧めたため、終末思想を説く大本と比べ、面白さに欠けるところがあった。その後、金光の傘下にいた出口なおは、王仁三郎とともに大本を立ち上げることとなる。
                    
■出口王仁三郎




素朴で純粋なものは、時として魅力がないように思える。しかし、時代が困窮すればするほど、根本的なところに立ちかえらなければならないのは世の常であろう。

2012年という節目を迎え、ここからどう生きればいいのか、何を支えにすればいいのか、彷徨っている人も多いと聞く。そんな時は、原点に帰ることが一番である。

太古からの神、金神の封印を解き、民衆を縛りから解放した一番煎じの金光大神を見直す時ではなかろうか。

金神の封印を改めて解くご時節が、今、到来したのである。


       


安倍晴明の生まれ変わりか?!



江戸末期に活躍したスピリチュアルリーダー金光大神は、平安時代に活躍した陰陽師伝説のスター安倍晴明の生まれ変わりだという説がある。

■安倍晴明  





備中国浅口郡(現、岡山県浅口市)周辺は、かつては陰陽師たちの聖地であり、あの安倍晴明やライバル芦屋道満の修行の場であったことはあまり知られていない。

現在でも、地名、神社、山、池、塚といろいろと史跡が残っている。中でも、「占見(うらみ)」という地名は、安倍晴明が住んでいたことからその名前が付けられたそうだ。

その晴明が住んでいた屋敷跡に建てられたのが、大宮神社であり、その横(同じ建物内)にある日吉神社は晴明自身を祀ったという由緒が『吉備物語』に記されているらしい。



■大宮神社 





その後、大宮神社は占見の氏神として栄えていく。時は流れて文化11年、その大宮神社の夏祭りに生まれたのが、なんと金光大神であった(※現在も占見に生家が存在)。

当時の日本でも、特にこの地域は、民間の陰陽師や修験道が盛んだったため、鬼門の金神を封じ、吉凶を占い、物事を判断する風習に縛られた生活を送っていた。




■阿部神社・安倍晴明塚・道満塚・道満池の坊主岩・鬼の手形岩etc...





余談だが、『天地無用』というアニメがある。そのアニメの舞台もこの辺であり、大宮神社の裏側に広がる遙照山の太老神社が聖地となっている。このアニメも、封じ込められていた鬼を解放するところから物語がはじまるらしい。

日本昔話に出てくる鬼の手形岩もこの辺りにあり、金神、鬼門、鬼にまつわるエピソードは尽きることはない。


■天地無用





その地で育った金光大神は、幼少の頃から真面目で信心深く、また、手習いの師匠は、庄屋で土御門の門弟に名をつらねる和算家で天文学者の小野光右衛門であったことから、誰よりも日柄方位を守った。


■小野光右衛門 



養子に入った川手家を復興させるために、金神の無礼にならないようにと、誰よりも忠実に守り、田畑を買い、家を広げ栄えさせた。しかし、金神七殺に遭う(※金神七殺とは、方位を犯すと金神がその家の者を七人殺すこと)。

金神七殺の最後は、一家の柱である金光大神も病気になった。絶体絶命のギリギリの状況の中、石鎚信仰の先達を通して、立ち現れたのが金神であった。

その出会いの後、危篤状態であった金光大神が助けられ、その後は金神から信頼を寄せられ、直接メッセージが送られるようになっていった。

そもそも安倍晴明は鬼門を忌み嫌う門ではなく、あらゆる万物を活かす働きがある正門として扱っていたようだ。

おそらく、その後の民間陰陽師や山伏たちによって、金神が歪められて伝わって行ったのと同時に、その縛りがあるからこそ成り立つような生業になって行ったのではなかろうか。このことは、現代のスピリチュアルブームの中にも共通する問題であろう。

たとえ、死んだ後のこととはいえ、そのことを黙って安倍晴明が見過ごすわけにはいかない。東洋と西洋がぶつかり、近代化がはじまる日本のターニングポイントに現れた金光大神が語るシャープで開放的な言葉は、まさに陰陽師のスター安倍晴明の生まれ変わりだといえる。




幕末スピリチュアルリーダー「金光大神」



金光大神は、祟り障りの神と恐れられていいた金神を祀り、人助けに命をかけた幕末の志あるスピリチュアルリーダーであり、また、彼は神社神道、白川家の免除を持つ神職であった。


■大本社




晩年、布教資格をはく奪されることになるが、神道の主流が天之御中主神を頂点に置く平田篤胤(復古神道)側が負け、天照皇大神を頂点に置く福羽美静(国家神道)側が力を持つことになったことが背景にあるからであろう。

金光大神は、事を荒げるタイプではない。しかし、「この神は、あなた方の言われるような神ではない・・・」と突き放すこころは、天照皇大神を頂点に置く、国家神道体制に突き進む神道界に対してNOと抵抗したのであろう。

「開けるというが、めげるのぞ。だから金光が出たのぞ。」と言われるが如く、明治維新、文明開化と目まぐるしく近代化していく時代を経て、その後、日本は戦争に突き進むことになっていった。



■平田篤胤 





■福羽美静






スピリチュアルリーダーの死と金神信仰の繁栄


金光大神は布教資格をはく奪されるだけでなく、六角畳、鳥居、神前の撤去と、厳しい布教差し止めのお達しも出た。

しかし、逆に水面下で金神を信仰する人々が増えて行ったのもこの頃であった。

ほんの数畳しかない狭い広前に、悩み苦しむ人々が、年間万人単位で各地から参って来るというのは脅威であり、神威そのものであろう。

あまりの人気ぶりと、金光大神の人徳で、布教は黙認されていった。

明治16年、金神により定められていた金光大神祭日の10月10日、資格もはく奪され、宮建築の計画も実行されないまま、いつも通りの狭い広前で帰幽した(享年70歳)。

「宮殿楼閣七堂伽藍、いらかをならべて建て続けさする」そう言い残した通り、その後の金神信仰の繁栄は目覚ましいものがある。




■立教聖場(神前奉仕されたところ)






■奥城(参拝者の絶えない金光大神墓所)








神道一派として独立の動き





金光大神の死後、爆発的広がりを見せていた金神信仰を、いかにまとめ、いかに後世に残していくのかを、高弟の佐藤範雄、近藤藤守らが中心となって組織化し始める。

■佐藤範雄 






■近藤藤守 




以下に、その後の変遷を写真で簡単に並べてみたが、ある時期までは、年々勢いが増し栄えていったようだ。

大本社(大教会所)が炎上したことは大変残念なことであり、また、金乃神社も史跡として残っていないことが悔やまれてならない。



■神殿 



       
  

■金乃神社(大祭風景あふれる参拝者)






■金神駅(現、金光駅。初期は祭り日のみ停車)





■大本社(大教会所・大正14年炎上)






一派として組織をまとめていくと、どうしても整えようとする力学が働くため、そこからはみ出る者、削られてしまうものもある。

当然、布教者の中には、別の神道傘下に入る者や、単立で講を立ててやる者も出てくる。

現存する中でいえば、京都の御金神社もそのひとつである。




■金神講





■御金神社





岡本天明と金光大神



最後に、日月神示の岡本天明だが、大本との関わりが余りにも有名だが、実は金光大神との関わりが深い。

現在のウィキペディアに載ってないのも不思議な話だが、天明は、明治30年、岡山県浅口郡玉島の地で生まれ、地元の名門校、私立金光中学(現、金光学園)に通った。

霊験あらたかな境内に隣接して学校が建ち、また、校長は金光大神の弟子佐藤範雄であり、その薫陶を直接受けた。後に事業に失敗した父親についていく形で神戸に引っ越し、金光中学を退学している。

この高弟からの薫陶は、出口なおが金光大神の傘下で布教していたことよりも、さらに意味が深い。どちらにしろ、この下地があったからこそ、大本と関わることも容易にできたのであろう。

出口なおと出口王仁三郎との出会いがなければ、大本がなかったのと同じように、金光大神がいなければ、大本も日月神示も、さらには大本の影響を受けて生まれた諸宗派も存在しなかったのではなかろうか。




■私立金光中学(学園) 






■岡本天明