「鬼滅の刃」竈門炭治郎(かまどたんじろう)は、川手文治郎(かわてぶんじろう)をモチーフにしたのではと思われる点がいくつかある。
そもそも日本における鬼の情報を集めれば、岡山、そして浅口市の情報が出てくるのは必然のこと。
浅口市は、数々の鬼伝説、陰陽師(天文学者でもある)安倍晴明から土御門神道の門人小野光右衛門にいたるまでの活躍、白川神道の免除をもつ教派神道金光教の開祖金光大神など、限りなく存在する岡山最大の聖地であるといえる。
中でも炭次郎と文治郎の類似点を語るとするならば、まずは、鬼門の祟り神「金神」による金神七殺
■金神七殺(鬼に殺される家族)
江戸時代のスピリチュアルリーダー金光大神の元の名は、川手文治郎である。
彼の生まれた岡山県浅口市は、古くは安倍晴明などの陰陽師の修行の場として栄え、
鬼の伝説も数多く残っており、そのような風土の中で、彼は育った。
信仰心深く、誰よりも日柄方位を守り、鬼門の金神に無礼がないようにと務めたが、金神七殺(※金神七殺とは、方位を犯すと金神がその家の者を七人殺すこと)に遭う。
家族がどんどん死んでいく中、最後に彼(七殺目)も危篤となって、ついに金神と出遭うこととなる。
炭治郎一家も5人が死に、6人目の禰豆子は鬼となり、炭治郎がその場にいれば7殺目に遭っていた。
そして炭次郎も禰豆子を通して鬼と出遭う。
この主人公の出来事は、金神七殺を連想させるというか金神七殺そのものである。
岡山には鬼神信仰である、金神信仰が根深くあったことも、歴史を見ればよくわかる。
次に、建物のつくりも見てみよう。
■立教聖城
文治郎が金神と出遭い、その後、白川神道の免除を持つ神職へと進む。
金乃神社建立の前、彼が金神とのやり取りが始まり、人々を救い助けたはじまりの場を、教派神道金光教では立教聖城と呼んでいる。
この立教聖城の建物は再現された建物であるが、家族中が死んでいく当時と同じ形をしていると言われている。
この建物と家族皆が鬼に殺される炭次郎の家がよく似ている。
そしてもうひとつ大切なことは、この鬼に対する2人の姿勢である。
■金神・鬼に対する姿勢(常識とは違う感覚の類似)
川手文治郎は、鬼である金神に対して、どういう姿勢であったのか。
世間では、触らぬ神に祟りなしと、逃げる、または封じるなどと、金神を祟り神として扱っていた。
文治郎は、その金神を他の神と分け隔てなく神として立て仰いだ。
その結果、祟りではなく、すさまじいパワーあふれる神の愛であったことがわかるようになってくる。
後年、神が世に出た恩人はその方であると、文治郎が神から礼を言われる場面もあった。
炭次郎も文治郎も愛が深い。
鬼なんて切ってしまえ、いなくなればいいという鬼殺隊の常識とはまったく別である。
鬼や金神に対してでさえ、愛が限りなく深い。
その愛に応えるが如く、炭次郎にあっては鬼が浄化していく、
文治郎にあっては、金神が、正しい神として立ち現れることとなった。
炭次郎は鬼殺隊に入り、心身共に成長していき、
文治郎は神職となり、金光大神と呼ばれるようになっていった。
川手文治郎は、竈門炭次郎であり、竈門炭次郎は、川手文治郎である。
余談だが、もうひとつある。
金光大神の弟子、近藤藤守である。
■藤守の紋
人々を救い助け、弟子を多く育てた近藤藤守は
難波土橋の金神様と人々に呼ばれていた。
その藤守の紋は、藤の中に「守」となっている。
金光大神が、唯一無二のこの道を守りぬいてくれとの思いから、藤守(不二を守る)の名を授けたことからはじまる。
鬼滅の刃の紋も同じく、藤の中に漢字「藤」がある。
ここもまた類似しているところとも言えないだろうか。
また、その立教聖城の横に階段があり、そこを上がれば、金光大神人力威乃命の奥津城(墓所)もある。
そう信じてやまない。